井上ひさし先生
「吉里吉里人」「國語元年」など多くの小説や戯曲、エッセーを書き、平和運動にも熱心に取り組んだ作家・劇作家で文化功労者の井上ひさしさんが死去されました。75歳でした。
井上さんは、山形県小松町生まれ。5歳で父と死別し、経済的な事情から一時、児童養護施設で育ちました。仙台一高から上智大フランス語学科に進み、在学中から浅草・フランス座で喜劇台本を執筆。卒業後、放送作家となり、1964年にNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」の台本を山元護久氏と共作し、鋭い風刺と笑いのセンスで注目されました。
69年には劇団テアトル・エコーに「日本人のへそ」を書き下ろして、本格的に劇作家デビュー。72年、江戸の戯作者(げさくしゃ)を描いた小説「手鎖心中」で直木賞、戯曲「道元の冒険」で岸田国士戯曲賞を受賞。
戯曲「天保十二年のシェイクスピア」(74年)、「化粧」(82年)など、壮大な想像力と平明で柔らかな日本語を駆使し、大衆的な笑いと深い人間洞察を両立させた秀作を多数執筆。エッセーや日本語論でも活躍されました。
83年には、自作戯曲を上演する「こまつ座」を旗揚げ。「頭痛肩こり樋口一葉」(84年)、太宰治を描いた「人間合格」(89年)、林芙美子が主人公の「太鼓たたいて笛ふいて」(02年)などの優れた評伝劇や喜劇を次々と上演。97年には新国立劇場の開場公演「紙屋町さくらホテル」を手がけました。同劇場には庶民の戦争責任を問う東京裁判3部作「夢の裂け目」(01年)、「夢の泪」(03年)、「夢の痂(かさぶた)」(06年)も書き下ろし、10年4月から3部作連続上演が始まりました。09年に初演した「ムサシ」が、今年、ニューヨークとロンドンで上演されます。
膨大な資料を渉猟後、ユニークな発想で創作するために筆が遅く、「遅筆堂」を自認。戯曲が完成せず、公演の開幕が遅れることもたびたびありました。
日本ペンクラブ会長、日本劇作家協会長などを歴任。直木賞、岸田戯曲賞、大佛次郎賞などの選考委員を長年つとめました。99年の菊池寛賞、00年度の朝日賞など受賞多数。04年に文化功労者、09年には芸術院会員に選ばれています。
日本演劇界最大の偉人が亡くなられました。
残念でなりません。
僕は、井上先生と、何回か、個人的にお話をさせて頂いたことがあります。
その都度、素晴らしいお言葉を頂戴しました。
演劇に取り組む上での、大きな指針を与えて頂いたのです。
とにかく、誰に対してもフランクに本音を語り、演劇界全体のオピニオン・リーダーでもあった方でした。
井上先生が道を切り開いていかれた後を、皆で歩いているという印象でしたね。
勿論、僕は、井上先生の作品も大好きで、良く劇場で拝見させて頂きました。
井上作品があまりにも凄いので、「この路線を進むのはやめよう」と思った程です。
しかし、僕は確実に井上先生の影響を受けています。
特に、セリフ回しや、劇構造等を、いつも参考にさせて頂いています。
(さすがに、まだ、音楽劇の要素は取り入れることは出来ませんけど‥)
一歩でも井上先生に近付けるように、努力しているところでした。
さて、僕は、井上先生が亡くなられた後の、日本演劇界が心配です。
04年には「九条の会」の呼びかけ人の1人となり、護憲・平和運動にも積極的で、日本の右傾化に警鐘を鳴らし続けたことでも知られていますが、かなりはっきり意見を言われる方だったんですね。
ただでさえまとまりのない演劇界がこれでバラバラになってしまったり、金儲け主義だけが横行するようにならなければ良いのですが‥。
僕には大したことは出来ませんが、少なくとも、井上先生の遺志を継いでいけるよう、より一層頑張っていきたいと思っています。
井上先生のご冥福をお祈りいたします。
話題変わって、本日18時から、「第2回ぷにぷに演劇ワークショップ」を行います。
今回は、かなり本格的に、演劇の本質に迫っていきたいと思っています。
かなり頭を使うことになる筈ですが、その分、充実感や達成感も味わえることでしょう。
演技を行う上で、最も大切なことを練習して頂きます。
お時間のある方は、予約なしでも結構ですから、17:50頃、大山街道ふるさと館・和室にお集まり下さいね。
2010年4月11日 07:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | カテゴリ:演劇
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